幼稚園を探し始めると、カトリックやキリスト教の幼稚園が意外と多いように思います。キリスト教保育と聞くと、どこか構えて見てしまったり、クリスチャンではないからとためらったりする方も多いように思います。ですが、キリスト教の幼稚園は、こんなに素敵なんだよということを少しでも多くの方に知っていただきたいと思い、記事にしてみました。実際に息子もキリスト教保育の幼稚園に通っています。ちなみに、私も自分の家族もキリスト教でもなければ、クリスチャンでもなく、布教活動がしたいとかそういう話ではまったくないのでご安心頂ければと思います。
キリスト教保育とは
キリスト教保育とは、聖書の教えを保育方針の一部とし、礼拝やお祈りを通してその教えを子どもたち一人ひとりが理解し、育んでいくものとされています。
キリスト教保育の根底には、”愛”があるのです。愛ってなに?と思われますよね。どの保育現場の保育者も愛を持って子どもたちに関わっていることは確かです。しかし、キリスト教保育は『みんな違って当たり前』という考えが前提にあります。それとは逆で、みんなと一緒にできることが良いこととしている保育観の保育園も、もちろんあるのです。それが、保護者の思いに合っていて、お子さんが楽しそうに通っているのであれば、その保育観はそのご家庭に合っているのだと思います。キリスト教保育は子ども一人ひとり、性格や気質が違うのは当たり前で、一人ひとりに寄り添うことが大切という考え方なのです。ですが、すべてのキリスト教保育がそのような考えを大切にして保育をしているわけでは決してありません。やはり、保育園は園長の考えがその保育園の保育観となり、保育者の目指すべきものになっていくので、実際に足を運んで見ることがとても大切なのはそういうことなのです。
では、「みんな違って当たり前」という考えの保育観とは実際どういうことなのかを次項で述べていきたいと思います。
どんなまなざしで子どもを見ているのか
キリスト教保育は、愛が根底にある保育観ということはお分かりいただけたかなと思います。みんな違って当たり前ということは、保育者はありのままの姿を受け入れるということです。つまり、保育者はどんな子どもの姿に対しても、肯定的なあたたかいまなざしで子どもを見ているということなのです。これがとても大切で、子どもにとってみると、ありのままの姿を受け入れてもらえるということは、「先生はどんなぼくでも、わたしでも愛してくれる、受け入れてくれる」=「わたしはわたしでいいんだ!」という安心感につながるのです。この安心感が、自己肯定感につながっていくのです。
逆に、保育者が否定的なまなざしで子どもを見ていると、それは必ず子どもに伝わり、そんなまなざしで見られている子どもたちは自信を持って生き生きと生活することができるでしょうか。保育者はどんなふうに子どもを見て、どこに焦点をあてているのか、保育者のまなざしが子どもにとってとても大切なのです。
子どもはどんなまなざしで友だちを見ているのか
では、あたたかいまなざしで子どもを見ている保育者のもとで生活している子どもたちは、どのように友だちのことを見るようになると思いますか?逆に、否定的なまなざしで子どもを見る保育者のもとで生活している子どもたちはどうでしょう。
子どもたちは大人の表情、言葉、態度を本当によく見ています。保育者のまなざしは子どもに伝染するかのように、肯定的にもなり、時には否定的にもなってしまうのです。あたたかいまなざしの中で生活を送ることで、どんな人でも、得意、不得意があるのは当たり前という空気が子どもたちの中にも生まれるのです。友だちにありのままの自分を受け入れてもらえるという経験の積み重ねが、心の土台となる安心・安全な居場所となっていくのです。
”ありのままの子どもを受け入れる” ⇔ ”みんなと一緒にできることが良いこと”
もちろんどの保育現場も、その時々や子どもの発達などの観点から、どちらともなることはあることだと思います。ですが、保育の根底にあるのはどんな保育観なのか、ということが幼稚園選びの際には大切だと思います。
以上のように、キリスト教保育は、とても素敵な愛のある保育観であることを知っていただけたら幸いです。
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